滋賀県大津市のNPO法人 ALSしがネット/訪問介護事業所・居宅介護支援事業所 もも

2022.7.2 Aだより

ハレルヤ!
友達の姉妹が、遠藤芳子伝道師が語られた修養会のCDをお友達に焼き増しを頼んで送ってくださいました。それとともに讃美のCDも。そして「苦しみを超えて」という、アメリカ南北戦争で傷ついた無名兵士の詩を美しい毛筆で色紙に書いて送ってくださいました。この詩は以前から知っていて、私の病気の意味を考えさせられる詩であり、それを学ばねばと思わされている詩です。今回、その訳詞者が、渡辺和子さんであることを知り、さらに感激しました。
私は何を望んだのだろう。この詩のようなことは望んでいなかったと思います。
けれど、この詩の与える感動は何なのだろうと考えました。そして、
この詩が意味することは、神様が与えられるものは、よいものであること。
それは自分が望んでいなかったものだとしても、神様には何が私に必要かが分かっておられるということ。
それを受け入れることができる者は、砕かれ、へりくだった者で、幸せだということかと思いました。
 
苦しみを超えて
 大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
 謙遜を学ぶように弱い者とされた。
 より偉大なことができるように健康を求めたのに、
 よりよいことができるようにと病気をいただいた。
 幸せになろうとして富を求めたのに、
 賢明であるようにと貧しさを授かった。
 世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、
 神を求め続けるようにと弱さを授かった。
 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
 あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
 求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
 神の意に添わぬ者であるにも拘わらず、
 心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
 私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
(渡辺和子 訳)
♪ある兵士の祈り 古木涼子編.

6/26(日)

6月23日、沖縄にいました。
本土で聞くこととは、随分違います。
渡嘉敷島では、集団自決の現場に、「皆笑って死んでいった」との、政府が書いた酷い説明文がありました。(我慢出来ずに、反対側に、真相として、村の教育委員会の説明文あり。)
死者に対する二重の冒とくとも云える事でした。
~軍の爆音を聞きながら~
沖縄の慰霊の日には沖縄にいたとふメールに 怒りがこもる
 「月桃の花」とふ歌も好きという 沖縄戦の映画の主題歌
月桃の花

映画「月桃の花」
物 語
1994年沖縄県では戦後50周年事業として、全戦没者の名前を刻んだ“平和の礎”を摩文仁の丘に建立することになり、各市町村で名簿づくりの一斉調査が始まっていた。
 宮里房(72)は海辺の村で琉舞を教えながら幼稚園を経営している現役の園長である。
 同世代の沖縄のアンマーの例にもれず地獄の戦場を体験した一人だ。5名の身内を次々と砲爆撃で奪われ、最後に追い詰められた摩文仁岬の洞窟から母と娘(赤ちゃん)だけが奇跡的に生還した。だが、房はその洞窟の中で何が起こり、何を目撃したのか誰にも語ったことがない。語るに語れないつらい悲しい想いを胸の内に秘めたままだった。房は戦没者調査も頑固に拒んで役所職員を手こずらせていた。
 そんなある日、突然、アメリカから孫のジョージ(22)が訪ねてくる。摩文仁の洞窟から九死に一生を得た娘の和子はアメリカに住んでいて、なぜか房とは絶縁状態になっていた。ジョージはその和子の一人息子なのだ。
 ジョージが母の故郷・沖縄を訪れたのは、母と祖母が仲違いした原因を直接房の口から聞きたかったのと、母の記憶にも無い沖縄戦で死んだらしい自分の祖母についても詳しく知りたかったからだ。しかし、房の口は重く、ジョージの期待ははずれた。
 ジョージはアメリカを発つとき、母から一度訪ねるように言われた読谷村(よみたんそん)の陶工・平良勝男(59)に会い、そこで意外な事実を聞いた。
 沖縄戦の末期、洞窟の中で房と和子と一緒にいた勝男は戦後、和子と兄妹のように房に育てられたというのだ。やがて成人した和子は、米軍のパイロットと恋仲になり、房の猛反対を押し切ってアメリカへ渡っていったという。そのパイロットの父はもういない。ジョージが2歳の時ベトナムで戦死している。
 ジョージは祖母と母が不仲になった理由をはじめて知った。だが、祖父の話に及ぶと、勝男も房と同じように口を閉ざして語ろうとしなかった。
 その後、ジョージは「今でもアメリカを恨んでいるか。アメリカ人の僕が憎くはないか」と房に聞いた。ジョージの唐突な問いかけに眠れぬ一夜を過ごした房は、翌日勝男に電話をかけ、すべてをジョージに話すつもりだと言う。「和ちゃんのあのこともですか?」と勝男は一瞬戸惑いを見せるが房の決意を察して同意する。2人には、何か和子に関わる共通の秘密があるようだ。
 房と勝男はジョージを伴い、50年前、地獄を体験したガマの前に来ていた。「ジョージ、何もかも話すから、和子にしっかり伝えておくれ」固唾を飲んで見つめるジョージに房は語り始めた。
 1945年4月1日、北谷(ちゃたん)の海岸から戦車の群が真っ黒に這い上がってきた。太平洋戦争の総決算として、沖縄本島を中心に日米最後の地上戦が展開されたのだ。
 実家のある中城村に疎開していた房は、4歳の真吉と1歳の和子を抱えていた。夫の真助は防衛隊にとられ、舅と実母、義理妹とその赤ちゃんの一行7名は、軍司令部のある首里(しゅり)を目指して避難して行ったが、やがて首里にも敵部隊が迫り、さらに南へと逃避行は続いた。
 昼夜を分かたぬ間断ない砲爆撃。山は割られ、村々は焼き尽くされ、地面を叩きつける砲煙弾雨の中を房たち一行は生活道具を堤げて泥道に散乱する死体をまたぎながら歩き続けた。
 途中、舅と実母、義理妹とその赤ちゃんの4人が次々と「鉄の暴風」の餌食になっていった。和子を背負い、怪我をした真吉の手を引いて命からがら逃げ込んだガマの中には、敗残兵と避難民が雑居していて、絶えずにらみ合っていた。
 不安なガマ生活の房親子を手助けしたのは平良勝男(10)だった。勝男は避難小屋にいたとき、米軍に手榴弾を投げ込まれて家族全員を失い戦争孤児になった。房たちに自分の失った家族を投影していたのかもしれない。とりわけ、真吉や和子を弟や妹のように可愛がった。
 戦闘はますます悪化し直撃弾がガマを見舞うようになる。真吉は傷が原因で高熱を出してうなされ続けた。房は、父を慕う真吉のうわ言を聞きながら胸を痛めた。夫の真助はどこにいるのだろうか…生きているのか…死んでしまったのか…房は夢を見た。戦争前の平和な家族団らんの幸福な日々の夢だった。
 いよいよガマが猛攻撃を受けた。轟音と共に岩天井が落盤し、壕内は大混乱となった。そして、ついに真吉が岩石の下敷きになって事切れた。そんな時、夫の真助が現れた。防衛隊にとられた真助はハワイ帰りで英語が出きるという理由でスパイ容疑をかけられ、危うく処刑されるところを脱走してきたのだ。2人は真吉に何もしてやれなかったことを詫びながら、泣き泣きガマの奥に遺体を埋葬した。
 馬乗り攻撃されたガマに最後の時が迫っていた。米兵はしきりに投降を呼びかけてくるが、「敵の捕虜になる者はスパイとみなして処刑する」という命令で、日本兵たちは住民に銃口を向けて脱出を許さない。地下川は涸れ、食料も底をついて飢餓地獄の様相を呈していた。赤ちゃんや幼児が泣き叫ぶ。「子どもを泣かすな! 敵は音波探知機で探っているのだ! 泣く者は始末するぞ!」と住民を脅した。
 親たちは我が子の口をふさぎだまらせるのに懸命だった。房も和子に乳房をふくませ泣き声が漏れないように強く抱きしめた。その様子を勝男が悲しそうに見つめていた。
 房が和子の異変に気づいたのは間もなくだった。
 真助は房を日本兵の人質に残し、米軍と折衝するためにガマを出た。そして、交渉が成立し、喜び勇んで戻ってきた時、その背後には米兵の姿があった。敵を誘導してきたと勘違いした日本兵は真助を撃ち殺した。狂ったように真助に走り寄る房。
 米軍の一斉攻撃が始まった。火炎放射の猛火がガマを襲い、迫撃砲が容赦なくぶち込まれた。避難民の間で手榴弾の炸裂音が次々と響く。断末魔の呻き声が壕内に充満し、阿鼻叫喚の地獄図が現出した。
 硝煙の漂う中、真助の遺体のそばに幽鬼のような房が立っていた。すべてを失った房が手榴弾の引き金を引こうとしたその時、かすかに聞こえてくる赤ちゃんの泣き声。房はその声に引き寄せられるように近づき、赤ちゃんを抱き上げた。
 房の話が終わったとき、ジョージ、勝男、それぞれの目に涙が光っていた。ジョージが呟く「それがママだったんだ…」。房はこれまで真実を隠していたことをジョージとアメリカの和子に詫びた。ジョージも又、母の命を救ってくれたからこそ、今の自分が存在していることで房に感謝した。「前よりもっとおばあちゃんを愛しています」ジョージは房を強く抱きしめた。
 翌、1995年、摩文仁の丘に“平和の礎”が完成した。林立した礎には敵味方を超えた戦没者23万人余りの名前が刻まれている。その中に「宮里和子」の名前もあった。 

6/27(月)

 同胞を守るべき軍に殺される こんな非情が戦争の姿
 久しぶりに呼吸器外れて心臓バクバク
 T下さんすぐ来てくれて 命拾い なかなか来ない人なら死んでる
 夜メラが吸われず直してもらうけど 圧が高いと舌が吸われる(ので低く設定)
 またメラガ吸われなくなり ナース呼ぶ「低くというからですよ」と叱られ
 舌や唇直径1ミリで吸われるの小さい小さい掃除機のように
 歯も共に吸われる感覚、歯医者での吸引チューブに吸い付かれるよう
 歯医者ならすぐに離してくれるけど、私は数分我慢をしてる
 メラ吸わぬと唾液が首に流れるの でももうそれで我慢をしようか
 こんな日に限って肩が痛くって、ほかのナースに来てほしいとおもう

6/28(火)

 「私たち」私であって、吾が家族、教会、牧師、役員(リーダー)を思う
 朝口に上り来るは「ああ驚くべきイエスの愛よ」の合唱なり
 亡き義父の バスの歌声思い出す ビリーグラハムでの聖歌隊も
 ケアの時よく配慮するナースなり 待たす時間が短くば満点
 洗髪時ずっと私の首支え苦しくないようにしてくれるUさん
 H、Uコンビは最高 こんな楽な洗髪初めて 感謝感激

6/29(水)

ゆうべ韓国映画の「弁護人」を見ました。軍事政権下の思想犯の捏造と拷問のすごさを知りました。拷問にあうと、強要されて、うその自白をせざるをえなくなってしまうのが当然だとわかりました。
軍が権力を握るというのは、法律が越えられてしまい、国民が守られないのだとこの映画は訴えていました。
 2・26事件からの軍部の暴走が日本を戦争につき進ませ、戦前戦中キリスト教会も思想犯の対象にされて、拷問にあった牧師も大勢おられます。蟹工船の作者小林多喜二も拷問でなくなっています。
 戦争という測り知れぬ犠牲で手にした平和憲法 主権在民守らねばならぬ

6/30(木)

 日に2回排便をする私を尋ねる医師は 「排便中か」
 珍しく排便終わっていたならば 電力不足について雑談をする
 27度を超えると胸がしんどくて、25度を切ると寒く感じる
 なんという適応力のないことか 去年の夏もこんなだったか 

7/1(金)

 雨降らぬ梅雨が終わりて七月が猛暑と共に襲い来るなり
 天竜寺の庭に咲きたる半夏生(はんげしょう) 汗だくになりて友は撮りしと
 その姿 凛と涼し気 神様の粋な計らい この酷暑ゆえ 
 T姉より修養会のCDと色紙が届く なぜ吾にこんなに良くしてくださる(かと感謝)
 修養会のチラシを読めば牧師なる夫をALSで送りしとある
 ご自身も難病であれど伝道師として働かれる遠藤芳子師
 美しき筆の色紙は「苦難を超えて」考えさせらる兵士のことば

7/2(土)

 警告を受け入れ悔い改めをしてほしい いのち失うことは悲しい

では、また。シャローム

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